Chopin's Etude Op.10 No.3
学校の寮というのは学校の付属施設なのだから、当然学校の近くにある。 というのを小日向かなでは菩提樹寮で暮らすようになってから初めて知った。 学校まで結構な距離があった地元に比べて、徒歩で十数分で学院に到達できるという立地条件に朝が弱いかなでは大喜びした覚えがある。 おかげで響也に「寝坊しても走れば間に合うな」などとからかわれたものだ。 けれど ―― 夏を越えて新学期が始まってからこちら、ちょっと感想が変わってしまった。 空があかね色に染まる頃、丸っこい頭でヴァイオリンケースを下げた影とチェロケースを背負った影が二つ並んで横浜の町を歩いていた。 今日も今日とて部活で練習に邁進していた悠人とかなでは、それでもそんな疲れも見せずに帰路をたどっていく。 「そう言えばヴァイオリンのパートリーダーが響也先輩の事を見直したって言ってました。」 「え?なんて?」 「夏前と別人みたいだそうですよ。ちゃんと練習にも出るようになったし、音もしっかりしてきたって。」 「あはは。響也、夏前は勝手に練習サボったりしてたしね。」 「最近の響也先輩は真面目ですからね。」 「うん、音も前よりずっとしっかりしたし、やっぱり大会に出たことが大きかったのかな。」 「はい。きっと僕や先輩も少なからず変化があるんだと思います。」 悠人の言葉にかなでは微笑んだ。 少なからず、と言う表現は控えめすぎる気がした。 「ハルくんの音もすごくいい音になったよ?」 「そ、そうですか?」 「うん。なんて言うか柔らかいって言うのかな・・・・。前からすごく潔い透き通った音だって思ってたけど、最近はちょっと優しい気がする。」 「そう・・・・ですか。」 そう言って悠人が目を逸らしたので、かなでは首をかしげてその顔を覗き込んだ。 「ハルくん?」 「っ!な、なんでもありません!」 「??何がなんでもないの?」 「だから僕の音が優しいとしたらそれは先輩に向かって弾いているか・・・・って、何を言わせるんですか!」 「えーっと、ありがとう?」 「・・・・いえ。」 「えへへ。」 うっすら赤くなった顔を逸らしてぼそっと答える悠人を覗きこんだまま、かなでは思わず笑い声を零してしまった。 それを聞きつけた悠人がちょっと顔をしかめてかなでを見るものの、有効な反論も生まれなかったようで。 二人の間になんともくすぐったい沈黙が落ちた。 けれどそれは居心地が悪いものではなくて、ずっとずっと・・・・。 その時、ちょうど曲がった角の先に見慣れた景色が広がった。 「あ・・・・」 薄く蔦が絡んだ鈍色にくすんだ繊細な柵と重々しい門柱。 そしてその先には横浜に来るまでは見たこともなかったような、年代物の洋館が今のかなでの家でもある菩提樹寮だ。 「着いちゃった。」 思った以上に拍子抜けしたような声が出てしまって、悠人が眉を寄せる。 「何を言っているんですか。帰ってきたんでしょう。」 「うん・・・・まあ、そうなんだけど。」 何を当たり前な事を、という口調で言われてかなでは歯切れ悪く頷いた。 確かに悠人とかなでは学校帰りなわけで、恋人同士というやつだから一緒に帰っていただけにすぎない。 でも逆に言えばそうでなければきっと思わなかった。 (・・・・学校から近すぎる、なんて。) 学年が違う悠人とかなではお昼休みと登下校ぐらいしか一緒に過ごせない。 そう響也にぼやいたら充分だろと言われたけれど。 (充分なんかじゃないよ。) いつもいつも思う。 この帰り道がもう少し長ければその分だけ一緒にいられるのに、と。 そんなほんの少しの事、と自分でも思うけれど、こればっかりはどうにもならない。 かなでは胸にわだかまった寂しさをいつものように小さなため息で誤魔化そうとした。 が、今日は残念ながら上手くいかなかった。 もしかしたら角を曲がる前の甘い沈黙が尾を引いていたのかも知れない。 原因はともかく結論から言うと・・・・かなでは思わずため息に乗せて呟いてしまったのだ。 「帰りたくない・・・・な。」 と。 「っ!」 口に出して音になって初めて、自分が心の中だけではなく言ってしまった事に気が付いたかなでははっとして口を覆った。 (な、何言ってるの、私!) いつも通りの帰り道で別に永遠の別れでもなんでもないのに、こんなナーバスな事を言ってしまう自分に、自分で呆れてかなでは俯いた。 (あああ、聞こえちゃったよね?こんな事言ったらハルくんに怒られちゃうよ。) 常識派でしっかり者の悠人のことだ。 呆れたに違いないと背筋が冷えるかなでの不安を肯定するように、案の定悠人がため息をはき出した音がして、かなではびくっと肩を揺らした。 (じょ、冗談とかで誤魔化されてくれるかな。) 「な、なーんて・・・・」 「まったく、先輩は。」 慌てて誤魔化そうとした言葉まで、タイミング悪く悠人の声で遮られてしまって、かなでは言葉を失ってさらに深く俯いてしまった。 (怒っちゃったかな・・・・?) こんな事で嫌われてしまったらどうしよう、と嫌な方向に鼓動が高鳴る。 (どうしよう、どうしよう。) グルグルと思考ばかりがから回ってかなでが逃げ出したくなった ―― その時。 ふっと、悠人が動いた気配がして。 「そんな・・・・可愛い事を言われたら、もっと好きになってしまうじゃないですか・・・・」 「え ―― 」 耳をくすぐった優しい声が紡ぐ言葉の意味を、かなでは一瞬捉え損ねて数度瞬く。 (―― 好きに・・・・?) 予想外すぎて情報処理できなかった脳が、ゆるゆるとその意味を理解した瞬間、かなでは弾かれるように顔を上げていた。 まん丸く見開かれた若草色の瞳に映ったのは、困ったように・・・・でもとても優しく目を細める悠人の顔。 そして。 (あれ、なんだか・・・・) 近い、と瞬きをするかなでの額にチェリストらしい少し固めの指先が触れて。 ―― ちゅ 「!?」 「で、では失礼しますっ!また明日!!」 ・・・・本人は歩いているつもりかも知れないが、完全に走ると同義語になっている勢いで去っていく悠人の背中を、かなでは呆然と見送って。 ・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「!?☆○!△!!!!×☆☆○!?!?」 声にならない悲鳴を上げて菩提樹寮の門の前で座り込んだかなでは、ややあって、途方に暮れたように呟いたのだった。 「どうしよう・・・・別に意味で帰れないよ・・・・」 このまま帰れば、確実にニアの餌食になりそうな真っ赤な頬をどうするか。 寂しさなど完全に吹っ飛ばされたかなでが、菩提樹寮に帰れるのは、まだもう少し先になりそうだ。 〜 終 〜 |